大学受験の日本史を考える

大学受験予備校で日本史講師をしている鈴木和裕です! 大学受験の日本史について思いつくままに書いていきます!

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読書感想文~授業・入試の参考に~

松尾剛次『葬式仏教の誕生 中世の仏教革命』(平凡社新書)の感想

 以前(2012.5.29)にTwitterでつぶやいた内容をまとめておきます。

1.現在の日本仏教は「葬式仏教」と揶揄されるが,葬式仏教は鎌倉仏教者たちによって行われた革新的な活動であったことを明らかにする。

2.古代の官僧は,鎮護国家の法会に携わり,8世紀の神仏習合以来,神事に奉仕するため,穢れ忌避の義務があり,死穢に関わる葬式従事が憚られていた。そのため,庶民の間では死体遺棄や風葬が一般的であり,僧侶ですら捨てられる場合があった。その中で葬送を望む人々が存在していた。

3.中世になると,慈悲のため穢を憚らず葬式を行う僧侶が現れる。官僧身分を捨てた遁世僧で,彼らによる鎌倉新仏教や旧仏教改革派が葬式を担う教団として形成された。その中で弥勒信仰と阿弥陀信仰が広がり,死体観が「穢れた存在」から「仏」へと変化し,死穢の問題が克服された。

4.戦国から江戸初期にかけて鎌倉仏教系の民間寺院が多数建立され,葬式仏教の拠点となった。中世には檀家と寺院の関係は流動的であったが,江戸幕府のキリスト教禁止を背景とする寺請制度により,寺の固定的な檀家となった。檀家は葬送を媒介として寺院と契約を結び,葬式仏教は確立した。

 その後のTwitterでのやり取りも,おもしろかったので紹介しておきます。

宗派としての自立は江戸時代ですかね…。教団といっても鎌倉期は在家信者がいたという程度でしょうか。 RT @tsukatetsu: 「大きな影響力を持つ」とは、鎌倉期から独自な教団として存在していたものが、室町・戦国期には次第に独自な宗派として自立したことを意味すると考えてよい?
posted at 11:45:25

飛鳥以前とのつながりは僕も気になりましたが,記述はなしです。民間の仏教者とは行基のような僧のことですか? RT @tsukatetsu: 古代には官僧しかいなかったのだろうか?民間で活動する仏教者は(中略)祖霊追善は飛鳥からRT 官僧は(中略)死穢に関わる葬式従事が憚られていた
posted at 11:49:52

要は室町~戦国の一向宗や法華宗のような状態ですか? RT @tsukatetsu: 江戸時代に行われたのは、国家による独立した宗派としての承認ですよね。それ以前に独立した宗派としての実態があったのでは?RT kazu_mha: 宗派としての自立は江戸時代ですかね…。
posted at 15:23:27

それだけそろっていれば教団だということですね? RT @tsukatetsu: 寺院(道場)があり門下の僧侶たち、そして在家信者がいる。これを「という程度」と表現するのは、うまく理解できないな。RT kazu_mha: 教団といっても鎌倉期は在家信者がいたという程度でしょうか。
posted at 15:24:02

それは「誰が焼いた(手を下した)か」という意味ですか?それは…希望したのは本人でしょうが。 RT @tsukatetsu: ところで、ふと疑問に思ったのですが、道昭を火葬したのは誰なんでしょうね?
posted at 15:37:11

わからんですね…弟子の誰か?とは想像しますが。 RT @tsukatetsu: 火葬という手段も含め、道昭を誰が葬送したのか、という疑問です。RT kazu_mha: それは「誰が焼いた(手を下した)か」という意味ですか? RT @つか: 道昭を火葬したのは誰なんでしょうね?
posted at 15:45:59

天皇の葬送なども行われているので,無かったわけではないです。 RT @tsukatetsu: だとすれば、中世になって葬送に従事する新しいタイプの僧侶が出現、という論理に疑問が出てくる。RT kazu_mha: RT @つか: 火葬という手段も含め、道昭を誰が葬送したのか
posted at 16:39:44

@tsukatetsu 一般民衆の死体は遺棄され,官僧の死体でも捨てられる場合があったようで,古代は葬式が一般化していなかったということです。天皇の墓所ですら葬送をしてしまったら誰も近寄らなかったようです。葬式に関与した場合は一定期間,謹慎しなければならないで官僧は忌避したと。
posted at 17:20:24

@tsukatetsu 松尾氏によれば,僧侶はもともと葬送に関わるものではなく,10cごろから天皇や貴族の葬送を行うようになるが,穢れ忌避のため,積極的に葬儀に関わろうとせず,葬式仏教ではなかったと。議論がずれていましたが,葬式仏教の形成について論じたもので葬送一般ではないです。
posted at 18:15:37

 ということで,本を読んで「疑問が増える」という結果に終わりました(笑)
 これらの疑問を解決してくれるかも?という期待を持って購入したのが勝田至編『日本葬制史』(吉川弘文館)ですが,まだ,読めていません…。





伊藤聡『神道とは何か』(中公新書)の感想

 かなり前(2012.5.19)にTwitterでつぶやいた内容をまとめておきます。

1.古代~近世に至る「神道」の形成過程を辿る。古代において形成された神仏習合思想が中世に最も深化し、神祇信仰は本地垂迹説の影響を受けて、仏教の救済論を取り込んだ宗教に変貌を遂げたとし、中世を「神道」の成立期とみる。

2.高校日本史の教科書ではほとんど触れられていない伊勢神道形成と仏教の関わりや、室町後期の吉田神道の画期性などを始め、神仏習合や神道説について、古代から近代までの展開を意識した授業の構成がイメージできた。

3.伊勢神道について。平安時代になると,伊勢神宮の神域では仏教にかかわる物事が忌避の対象となるが,重源・貞慶をはじめ,多くの僧侶が参宮を遂げ,伊勢神宮は中世を通じて仏教の聖地であり続けた。その中で本地垂迹説では仏法との関わりを説明できなかったことから神道書が生まれた。

4.伊勢神宮の由緒などを密教によって説明しようとする両部神道もその一つであり,伊勢神宮の内外両宮をもって,密教の胎蔵界・金剛界に配当する。両部神道書の生成に前後して,外宮の神官度会氏の伊勢神道の動きで,その目的は外宮が内宮と同格であることを示すところにあり,

5.豊受大神を皇祖神として組み込もうとしている。その中で度会家行は両部・伊勢神道の教説を体系化しようとして『類聚神祇本源』を著した。この説は度会家行に学んだ北畠親房が『神皇正統記』などを著すことにより,伊勢神宮外部にも知られるようになった。

6.吉田神道について。室町後期に登場した吉田神道は,先行する神道説および儒仏道にわたるさまざまな要素を取り込むことで成り立つ。近世の吉川・垂加神道は吉田神道から発生するなど,吉田神道は近世神道説の母体であった。近世以降に広く受容される神儒仏一致の思想は吉田兼倶が唱えた。

7.若干,気になるところはあったが,神仏習合説が形成されるときに付けられた理屈や,神道説と近世の国学の形成とのつながりなど参考になるところは多かった。

 以上です。
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