大学受験の日本史を考える

大学受験予備校で日本史講師をしている鈴木和裕です! 大学受験の日本史について思いつくままに書いていきます!

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読書感想文~授業・入試の参考に~

2015年センター日本史B本試験の難問分析 ~その4~

2015年のセンター日本史B本試験の難問分析の最終回です。

◆第6問 問3 問題番号31

問3 下線部(c)の人物[安井曽太郎]に関して述べた次の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。

 X 「悲母観音」などの優れた日本がを制作した。
 Y 美術団体の二科会に参加した。。

  ① X 正  Y 正② X 正  Y 誤
 ★③ X 誤  Y 正④ X 誤  Y 誤

 またもや2文正誤ですが,文化史,それも絵画史となると半分以下の正答率も頷けます。文化史を弱点として残しておくと,高得点は取れません。「悲母観音」,二科会以前に安井曽太郎を知らなくて,適当に解答した受験生が多い気がします。日本画・西洋画の区別ぐらいはできるようにしておきたいところです。文化史攻略の攻略ポイントは文化区分と「グループ」分けです。近代文学なら写実主義か,ロマン主義か,自然主義かなど,どのグループに属する作家か,作品かなどをおさえておきましょう。それが正誤問題のポイントです。


◆第6問 問5 問題番号33

問5 下線部(d)に関連して,日中戦争勃発前後の政治・文学に関して述べた次の文a~dについて,正しいものの組合せを,下の①~④のうちから一つ選べ。

 a 第1次近衛文麿内閣は,中国に宣戦布告し,全面戦争への決意を示した。
 b 北京郊外で起こった日中両軍の衝突は,その後,上海などへも波及した。
 c 報道の検閲は厳しかったが,小説は検閲の対象外であった。
 d 政府の弾圧により,プロレタリア文学者が転向を迫られた。

 ① a・c② a・d③ b・c★④ b・d

 これは半分強の受験生ができていましたが,誤答が②に偏っています。aとbの判断ができなかったようです。やや些末な内容でしょうか。aが正文だと思った受験生とbが誤文だと思った受験生がいたでしょうか。aは「宣戦布告した」というのが誤りなのですが,宣戦布告はしていないのです。アメリカの中立法を避けるためだったのですが,そこまで知っている受験生は少ないでしょうか。山川出版社の『詳説日本史』では脚注に「日中両国ともに,アメリカの中立法(戦争状態にある国への武器・弾薬の禁輸条項を含む)の適用を避けるためなどの理由から,正式に宣戦布告はしなかった。」とありますが,なかなか着目しにくいところです。またbについては「盧溝橋事件→南京占領」という事項のみを整理している受験生が多いのではないでしょうか。第2次上海事変を知らない受験生多かったのでしょうか。
 一見,細かい内容に見えても,センター試験の出題者が教科書を参考にしているのがよくわかる問題です。


◆第6問 問6 問題番号34

問6 下線部(c)に関連して,日本軍が占領した都市について述べた次の文X・Yと,その都市の所在地を示した下の地図上の位置a~dとの組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。

  X 日中戦争勃発時に中華民国の首都がおかれていた。
  Y イギリスの支配する植民地であった。

   ※地図は省略


  ★① X-a Y-c② X-a Y-d
   ③ X-b Y-c③ X-b Y-d



 45.0%→34.57% ③20.6 ②20.3 ④11.8

 驚いたことに2013年の出題とほぼ同じ問題といってもいいでしょう。同じシンガポールの判断をさせています。しかし,正答率は3分の1程度でやはり受験生が地図,それもアジアの地図を出されるとできないというのがわかりました。なぜ2013年に出題されているにも関わらず,多くの受験生が対策をとっていないのでしょうか?センター試験は教科書と過去問です!過去問を解いていながらそこに着目しない受験生が多いことに驚きです。Xは南京,移動した重慶と間違ってはいけません③を選んでいる受験生が多いことを考えると,文章を読み違ったのでしょうか。Yはシンガポールです。確かに難問なのですが,2013年の問題を覚えていた受験生は解けたでしょう。ちなみにdはバタヴィアでオランダ領です。


●2013年 第6問 問6 問題番号34

問6 下線部(e)に関連して,日中戦争以後の日本軍の作戦行動にかかわる都市について述べた次の文X・Yと,その都市の所在地を示した下の地図上の位置a~dとの組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。  

  X 中国の国民政府が首都を移したこの都市には,日本軍により繰り返し爆撃が行われた。
  Y イギリスの植民地であったこの都市とその周辺地域では,反日活動の疑いをかけられた中国系住民(華僑・華人)が,日本軍により殺害された。

  ※地図は省略

 ①X-aY-c
 ②X-aY-d
 ③X-bY-c
 ④X-bY-d

 以上で2015年のセンター日本史B本試験の難問分析を終わります。
 これらの分析を実戦的に攻略していくために書いたのが,以下の本です。過去問で高得点をとれずに困っている受験生にお勧めします!


 



神田千里『宗教で読む戦国時代』(講談社新書メチエ)の感想

 以前(2012.6.7)にTwitterでつぶやいた内容のまとめです。

1.国民国家が形成され,日本列島に住む者が日本人と認識される画期となった戦国時代における宗教的行為や宗教心の面を見る。

2.戦国時代には一神教的な発想ともいえる「天道」の観念は武士層を中心に日本人に深く浸透していた。それは外面的な行動に関して世俗的道徳を重視し,内面での神仏への信仰を重視するものであった。キリシタンも神を「天道」と表現していた。

3.日本中世の仏教にあって,宗派の違いは大した意味はなく,本質的には同じものみる見方も鎌倉時代からあった。諸宗派が持つ神仏習合の観念は「神仏」は総体として信仰の対象たるべしとする「天道」思想となじみやすいものであり,諸宗派は同一の思想的枠組みの中に収まる共存可能な教団であった。

4.一向一揆は宗教一揆ではなかった(法華一揆も同様)。大名や教団首脳の政治的思惑から門徒が「仏法のため」と称して動員されており,中世に「一向一揆」という言葉はなかった。織田信長と激しく対立する現在の一向一揆像は江戸時代の東・西本願寺の対立の中で創作されたものであった。

5.戦国時代になって宗教の比重が低下するという定説を見直す必要がある。戦国大名は,局面によって仏教教団に介入するものの,全体として教団の自律性を承認し,尊重していた。寺院の宗教活動は大名にとっても領国経営の上で重要な社会的機能であった。

6.バテレン追放令以降,キリスト教が「邪法」とされたのは,仏教諸派への攻撃・迫害と信仰強制が問題になったもので,すべての神仏を尊重するという「天道」に反するためであった。権力者を相対化する教義内容よりも,日本の宗教との共存を否定する行動様式が問題であった。

7.島原の乱は飢饉の中での年貢収奪などで農民が蜂起したといわれるが,実際は宗教的な理由で起こったもの。当時,飢饉に際してキリシタンに戻る「立ち帰り」が頻繁に行なわれた。そして,乱はこの厳しい飢饉や年貢収奪に立ち向かうために不可欠な信仰の承認を要求した宗教運動であった。

 以上の感想です。

神田氏は,仏教諸宗派に対する攻撃的な姿勢を豊臣秀吉が「邪法」と呼び,キリシタンの教義内容を内容をまったく問題としていない,というのだがどうか。確かに,「神国」「仏国」の日本に「邪法」を広め,日本の政治を改めて,自らの領有にしようとしている,というバテレン追放令の読みは分かるが。

すべての神仏を尊重するという「天道」思想に反しているキリスト教の仏教迫害というだけで,キリスト教弾圧は説明できるのか。

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