2013年 慶応大学の経済学部の解答と,論述問題の解説です。


Ⅰ 徳川幕府の国内支配体制の整備

問1.
(a) 一国一城令(b) 諸宗寺院法度
問2.
(1) 3(2) 大名の改易による牢人の増加を背景に慶安の変が起こったため,改易の原因となっていた末期養子の禁を緩和することで牢人増加を抑えようとした。
問3.a-4  b-2  c-5
問4.
(1) a 荻原重秀  b 新井白石
(2) 南鐐二朱銀
(3) 品位を下げた文政小判などの貨幣を大量に流通させたため,商人の経済活動が活発になり,物価は上昇したが,幕府の財政は潤っていた。
(4) a-6  b-5  c-4  d-1
問5.
(1) 3  (2) 4


Ⅱ 沖縄の歴史

問6.
(1) a 按司  b 尚巴志  c おもろそうし
(2) 琉球国王が明皇帝に朝貢して,琉球国王として冊封を受けていた。
問7.2
問8.
(1) a-5  b-3・6
(2) 武力開国をめざす征韓論は挫折したが,その後,江華島で軍事的な示威をおこない,これを機に朝鮮に迫り,日朝修好条規を結び,国交を樹立した。
問9.明治政府は,日中両属であった琉球王国を日本領とする方針をとり,琉球藩を設置した。さらに台湾出兵で琉球漂流民殺害事件が決着したことで,琉球に軍隊を送り,琉球藩を廃して沖縄県の設置を強行した。
問10.a-5  b-3  c-6 d-1
問11.1→4→2


Ⅲ 太平洋戦争終了後の日本の国家体制と社会・経済の変化

問12.
(1) a-平和  b-公正    c-戦力
(2) a-5  b-3  c-4
問13.中華人民共和国が成立し,朝鮮戦争が勃発してアジアの冷戦が激化する中,自陣営強化を狙うアメリカの意向で,日本は講和条約・安保条約に調印し,台湾政府と講和した。しかし,反発するソ連などとは講和せず,中国人民政府との関係は冷却した。
問14.3
問15.a-2  b-5
問16.
(1) 2
(2) a-1 b-2 c-4 d-6
問17.
(1) 3  
(2) a-2 b-4 c-6
(3) 橋本内閣による緊縮財政と消費税5%への引き上げに,工業製品の輸出先であるアジア諸国での通貨・金融危機が重なり,景気が後退した。



【論述問題の解説】
◆Ⅰ-問2 (2)
 設問の要求は,幕府がこの布令(史料)を出した理由について説明することです。
 史料は末期養子の禁の緩和に関するもので,知識があれば史料が何かはわかるでしょう。それでは,幕府が末期養子の禁を緩和した理由は何かを考えてみましょう。
 この布令は4代将軍徳川家砂の時代に出されたものです。3代将軍家光の時代は,大名の改易が多く,それにともない,奉公先を失った牢人の増加・不満が問題になっていました。その中,1651年,家光が死ぬと,兵学者由井正雪らを中心に牢人が幕府転覆を企てます(未遂)。それを機に,幕府は改易の原因の一つとなっていた末期養子の禁を緩和して,牢人の増加を防ごうとしたのです。

◆Ⅰ-問4 (3)
 設問の要求は,図中のdの改鋳が行なわれた時期の幕府の貨幣政策は経済にどのような影響を与えたかを説明することで,幕府財政への影響も含めることが求められています。
 まず,dの改鋳は文政小判とわかるでしょうか。金の含有量から(1)の設問の解答がわかっていれば,aは元禄小判,bは正徳小判と判断できます。次にcは品質が下がっているので,良質の享保小判ではなく,その後に発行された元文小判と考えられます。それよりも,さらに品質が下がっていることから,dは文政小判です。
 文政小判とわかれば説明できるでしょう。11代将軍徳川綱吉の親政時代である文化・文政期のうち,文化年間は寛政の改革の方針が受け継がれて,質素・倹約が続いていました。しかし,文政年間になると,品位のおとる文政金銀を大量に発行し,流通させました。そのため,経済的な影響として,商業は活発化し,物価は上昇しました。しかし,幕府の財政は潤い,将軍や大奥の生活は華美に流れました。

◆Ⅱ-問6 (2)  省略

◆Ⅱ-問8 (2)
 設問の要求は,日朝修好条規締結に至る経緯を1873(明治6)年以降について説明することです。
 「1873年以来」とあるので,まず,1873年に何があったのか考えましょう。その年には,征韓論をめぐって留守政府と帰国した岩倉使節団との対立がありました。そこから説明すればいいでしょう。
 1873年には,西郷隆盛ら留守政府で征韓論が浮上しましたが,内地優先を唱える大久保利通らの反対により挫折しました。しかし,その後,大久保政権のもとで,1875年,日本の軍艦が江華島で朝鮮を徴発して戦闘に発展する江華島事件が起こります。それを機に,日本政府は朝鮮に開国を迫り,日朝修好条規を締結しました。

◆Ⅱ-問9
 設問の要求は,琉球が沖縄県として日本の領土に組み込まれた経緯を,1871(明治4)年以降について説明することです。
 「1871年以降」というのは,1871年に起こった琉球漂流民殺害事件に触れるという解釈でいいでしょう。
 日本政府は,日中両属関係にあった琉球を日本が領有する方針のもと,1872年,琉球藩として,日本に編入しました。一方,1871年に琉球の漂流民が台湾人に殺害される事件が起こり,日本政府は,清国が殺害に責任を負わないことを理由に,1874年,台湾に出兵しましたが,イギリスの調停もあり,清国は責任を認めました。それにより,琉球に対し,優位な立場に立ったと判断した日本政府は,軍隊を送って沖縄県の設置を強行しました(琉球処分)。

◆Ⅲ-問13
 設問の要求は,日本の主権回復が戦後処理に関して多くの問題を残す者になった背景として,1949年から1953年までの国際政治・軍事情勢の変化を説明することです。
 「日本の主権回復」とは,サンフランシスコ平和条約の締結・発効による独立のことです。しかし,講和にあたっては,ソ連などが講和条約に調印せず,中華人民共和国と台湾の中華民国が招かれないなど,戦後処理に問題を残すこととなりました。この背景を考えてみましょう。
 当時はヨーロッパでアメリカ陣営とソ連陣営の冷戦状態が激化していました。その中で,中国では,共産党が国共内戦に勝利して1949年に中華人民共和国の成立を宣言し,国民政府は台湾で残存しました。1950年には,北朝鮮が韓国に侵攻し,朝鮮戦争が勃発し,アジアでも冷戦状態が深刻化しました。その中で,アメリカは日本の戦略的価値を重要と考え,西側陣営への早期編入と,米軍の日本駐留の継続をめざし,ソ連など東側陣営を除外する方針で講和の準備をすすめました。その結果,1951年,サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約を締結しました。しかし,ソ連は会議に出席したものの,調印しませんでした。両中国は招かれず,日本は1952年に日華平和条約を結んで台湾政府と講和しましたが,中国との関係は冷却し,国交回復が遅れることとなりました。

◆Ⅲ-問17 (3)
 設問の要求は,図の4の時期に( c )の国のGDP増加率がマイナスとなった要因を,国際経済関係と国内経済政策それぞれについて考えることです。
 これは難問です。そもそも知識がない受験生が多かったのではないでしょうか。
 まず,グラフを考えてみましょう。(1)(2)の段階で,国名と時期の判断ができていることが,前提となりますが,(c)の国は日本だと予想できるでしょう。おそらく,タイや中国の「国内経済政策」は問わないだろうと推測できるはずです。そして,(b)のグラフの変化が4の時期に急激な変化をしています。ここから,1997年のタイから始まったアジアの通貨・金融危機が想起できるでしょうか。これが「国際経済関係」になります。
 それでは,以上から整理してみましょう。
 「国際経済関係」では,1997年半ばから,タイ・バーツの危機が引き金となって,アジア通貨に動揺が生じました。韓国のウォンなどにも混乱は広がっています。その結果,アジア諸国向けに工業製品を輸出していた日本は大きな被害を受けました。
 「国内経済政策」では,1996年に成立した橋本竜太郎内閣が緊縮財政と増税により財政再建をすすめていました。1997年には消費税率5%引き上げ,特別所得減税の廃止,さらには医療保険患者の負担増など国民負担が増加しました。その結果,個人消費が低迷し,深刻な不況となりました。
 以上をそれぞれまとめればいいでしょう。
 ちなみに山川出版社『詳説日本史』p386には以下のような記述があります。
「行財政改革の推進をかかげた橋本内閣は,財政構造改革法を成立させ,行政改革の基本方向を固めた。しかし,翌年4月に実施した消費税の5%への引上げ,同年夏以降のアジア諸国の通貨・金融危機がかさなったため,景気はふたたび後退に転じ,日本経済は戦後未曾有の深刻な不況に突入した②。
② 1997年度の経済成長率は,第1次石油危機直後の74年以来のマイナス成長(-0.4%)となったが,98年度は-2.0%とさらに大きく落ち込んだ。」
 以上がグラフを読む手がかりになります