参勤交代について,以前,Twitterでつぶやいた内容をまとめておきます。
 
 日本史の論述問題で「参勤交代」を説明させると,「大名の経済力を削減し,その勢力を抑え,反乱を防ぐ目的…」という答案が一定数存在します。割合にすると,7割前後でしょうか。相変わらず,古典的な理解が一般的には広がっているようです。
 実際にネット検索すると,ウィキベディアで「目的は、諸大名に出費を強いることでその勢力を削ぎ、謀反などを起こすことを抑止するため」とあります。その他,同様の見解は各所にみられます。「ヤフー知恵袋」や,引用はしませんがさまざまなブログなどなど…。 

 現在の高校の教科書を見てみましょう。代表的な山川出版社『詳説日本史』の参勤交代の説明では「そのなか(武家諸法度寛永令)で,大名には国元と江戸とを1年交代で往復する参勤交代①を義務づけ,大名の妻子は江戸に住むことを強制された。注① 規定では在府(江戸)1年・在国1年であるが,関東の大名は半年交代であった。参勤交代によって交通が発達し,江戸は大都市として発展したが,大名にとっては,江戸に屋敷をかまえて妻子をおき,また多くの家臣をつれての往来自体も,多額の出費となった。(p162)」とあります。
 山川『詳説日本史』(2006年度版)の記述では,参勤交代の影響として「大名にとっては,…多額の出費となった」とありますが,「大名の経済力削減・反乱防止が目的とは書いていません。あくまで「結果として出費が多かった」ということです。これは最近の教科書で内容が変わったのかといえば,そうではなく,山川出版社の1991年度版教科書も,ほぼ同様の記述になっっています。手元に小・中学校の教科書はないのですが,どう書いてあるのでしょうか。

 次に江戸時代について研究者の書いた一般書の「参勤交代」に関する記述を見てみましょう。
 山本博文氏の『参勤交代』(講談社現代新書)には,「江戸幕府における参勤交代も,秀吉の時代と同様に大名の服属儀礼であって,参勤しないと幕府への反逆であると解釈された。…参勤は,将軍への服属の意思の表明であり,江戸城での拝謁は,諸大名の服属儀礼である。」とあり,また,丸山雍成氏の『参勤交代』(吉川弘文館)では「参勤交代は,単なる軍役体系の一環という次元を超えて,主従制下の政治支配の主柱-特に大名知行制にもとづく分権性を克服して,集権的統治を実現するための槓桿-として,制度的に確立をみたというべきだろう」としています。
 以上から分かるように,参勤交代は将軍が主従関係を維持するために大名に課した平時の軍役で,大名の将軍への忠誠を示す儀礼だったのです。そして,江戸幕府が大名の地方割拠を抑制し,中央集権化を進める効果を持ったものでした。つまり,「参勤交代による大名の財政窮乏」は目的ではなく,幕府が意図せざる結果だったのです。

 それでは,「大名の経済力削減」について考えてみましょう。まず,「参勤交代の制度化」とは,何を意味するのでしょうか。『近世の歴史』(中央公論社・3支配のしくみ)には,「参勤交代の制度については,この寛永十二年の武家諸法度によって始められたと解するならば,それは誤りである。…すでに実施されていたものを,毎年四月を交代時期と定めて,隔年の参勤という形で制度化したことがその意義となる。」とあります。大名の江戸への参勤はすでに行われていたのですが,不定期で江戸に来たら将軍の許可がなければ帰国することはできなかったのです。そのため,参勤交代が制度化され,不定期であったものが,隔年となったことは大名にも都合がよかったといえるでしょう。それに「参勤交代が隔年に変化していく理由は,毎年参勤が大名の負担になっていたからであろう。…豊臣家が滅びた今,毎年の参勤を要求することはそれほど意味のあることではなかった」(山本『参勤交代』) のです。 
 そして,次に大名の参勤交代の経費については,「近世前期の寛永・寛文のころまでは,幕府は参勤してくる大名に対して応分の合力米を支給するのを常としていた…この合力米支給の事は,幕府の財政が悪化した五代将軍綱吉の時代のころに廃止された」(『近世の歴史』3支配のしくみ)とあり,さらに参勤交代を制度化した武家諸法度の寛永令では,「大名小名、在江戸交替、相定ル所也。毎歳夏四月中参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労也。向後其ノ相応ヲ以テ、之ヲ減少スベシ」と,むしろ従者の人数が多いことについて,領国の支配の上での無駄,領民の負担として減少するように命じています。
 以上から江戸幕府は参勤交代による「大名の窮乏」について,むしろ気を使っているといえます。経費節減のために従者の数を減らすことを命じたり,国持大名には経費を補う米の支給をしています。やはり「大名の経済力削減による反乱防止というのは参勤交代の目的・意図とはいえないでしょう

 ちなみに,杣田善雄氏の『将軍権力の確立』(吉川弘文館)には,「法度に明文化されていないが,実際にこの規定(参勤交代)の適用を受けたのは外様大名であった。…譜代大名は,常時在府を原則として江戸に集結していることが通常のすがたであったから,この時点では参勤交代の対象外であった」とあります。当初,参勤交代をしていたのは,外様大名だけだったのです。譜代大名の参勤交代は「寛永飢饉さなかの寛永19(1642)年に交替で帰国して領内経営にあたるように命じられ,それ以降,関八州の譜代大名は半年交替,他は1年交代と,譜代大名も参勤交代制度のもとに編入されることになった」(杣田『将軍権力の確立』)ということです。

 「参勤交代には,大名の経済力を削減し,その勢力を抑え,反乱を防ぐ目的があった」という論述問題の答案が早くなくなることを願っています。