以前(2012.6.7)にTwitterでつぶやいた内容のまとめです。

1.国民国家が形成され,日本列島に住む者が日本人と認識される画期となった戦国時代における宗教的行為や宗教心の面を見る。

2.戦国時代には一神教的な発想ともいえる「天道」の観念は武士層を中心に日本人に深く浸透していた。それは外面的な行動に関して世俗的道徳を重視し,内面での神仏への信仰を重視するものであった。キリシタンも神を「天道」と表現していた。

3.日本中世の仏教にあって,宗派の違いは大した意味はなく,本質的には同じものみる見方も鎌倉時代からあった。諸宗派が持つ神仏習合の観念は「神仏」は総体として信仰の対象たるべしとする「天道」思想となじみやすいものであり,諸宗派は同一の思想的枠組みの中に収まる共存可能な教団であった。

4.一向一揆は宗教一揆ではなかった(法華一揆も同様)。大名や教団首脳の政治的思惑から門徒が「仏法のため」と称して動員されており,中世に「一向一揆」という言葉はなかった。織田信長と激しく対立する現在の一向一揆像は江戸時代の東・西本願寺の対立の中で創作されたものであった。

5.戦国時代になって宗教の比重が低下するという定説を見直す必要がある。戦国大名は,局面によって仏教教団に介入するものの,全体として教団の自律性を承認し,尊重していた。寺院の宗教活動は大名にとっても領国経営の上で重要な社会的機能であった。

6.バテレン追放令以降,キリスト教が「邪法」とされたのは,仏教諸派への攻撃・迫害と信仰強制が問題になったもので,すべての神仏を尊重するという「天道」に反するためであった。権力者を相対化する教義内容よりも,日本の宗教との共存を否定する行動様式が問題であった。

7.島原の乱は飢饉の中での年貢収奪などで農民が蜂起したといわれるが,実際は宗教的な理由で起こったもの。当時,飢饉に際してキリシタンに戻る「立ち帰り」が頻繁に行なわれた。そして,乱はこの厳しい飢饉や年貢収奪に立ち向かうために不可欠な信仰の承認を要求した宗教運動であった。

 以上の感想です。

神田氏は,仏教諸宗派に対する攻撃的な姿勢を豊臣秀吉が「邪法」と呼び,キリシタンの教義内容を内容をまったく問題としていない,というのだがどうか。確かに,「神国」「仏国」の日本に「邪法」を広め,日本の政治を改めて,自らの領有にしようとしている,というバテレン追放令の読みは分かるが。

すべての神仏を尊重するという「天道」思想に反しているキリスト教の仏教迫害というだけで,キリスト教弾圧は説明できるのか。